「人生は一杯のコーヒー」についての一考察

少し前のエントリのネタ

教授:
「人生はそう、一杯のコーヒーのようなものです。そして仕事、お金、名誉や地位は、みなカップです。そのカップがなんであろうと、人生が勝手に決まったり、あるいは人生を変えてくれるなんてことはありません。ちょうど、カップが違ってもコーヒーの味が変わらないように。私たちにはときどき、カップだけしか目に入らなくなってしまうときがあります。そんなとき私たちは、せっかく与えられた自分だけの"コーヒー"を楽しめなくなってしまうものです」

「さあ、”コーヒー”を楽しみましょう」

 これは、「人生」を楽しもうという寓話としてはオッケーだけど、コーヒーマニア*1の僕としては、「カップが違ってもコーヒーの味が変わらない」というところ、ちょっと引っ掛かりました(笑)この教授はわざと同じコーヒーを別々のカップに入れてたけど、世間の実際はどうかなと考えてみると、やっぱり高級なコーヒーはそれなりの容器に入っていることが多いですよね。

 つまり、逆に言えば、街で見かけるコーヒーは、まず入れ物を見れば、それなりの確率で中身の良さを推定することができる。ということじゃないでしょうか。


 子供に、「身なりを良くしなさい」なんて言うと、最近のませガキは、「人間大事なのは見かけじゃなくて中身だろ!だらしない格好してても別にいいじゃねーか!」なんて文句を垂れるけど、そういうときに、このコーヒーの話を少しエディットして聞かせてやれば、納得しないかな。

「高級なコーヒーは、大抵高級そうな入れ物に入って売っている。」
「お客はみな、入れ物を見て、中身がいいものかどうかの見当をつけている。」
「身なりというのはそういうもの。中身は深いつきあいをしないと分からないから、初見では外見から判断する以外ない。」
「つまり社会では、そこをいい加減にしていると、外見から判断されて、中身もいい加減な人間だと思われてしまう危険性があるということだ。」
「だからこそ、子供のうちから、場面に応じて身なりを良くできるように練習しておくのが大事なんだ。」

 どうでしょう?これなら説得力ある・・・かなぁ?

*1:インスタントならNescafe ゴールドブレンド、外で買うときは森永マウントレーニアのカフェラテばかりという拘りようです