ゆとり教育をあえて弁護してみる

ゆとり教育はダメだーって、最近やたらたたかれてますよね。「分数できない大学生」とか。だけど、本当のところはどうなんでしょうか。

大学生が分数も出来ないって、実は普通の大学生がアホになったのではなくて、少子化のせいで、そんなやつでも(大学を選ばなければ)どっかの大学には入れるようになったから、つまり、親のバックアップや、社会的な余裕のおかげで、分数も出来ないアホでも大学生になれるようになったっていうだけだろ?

というツッコミがネットにありました。確かに僕もそう言われればそんな気がします。てなわけで、今日は敢えて、分の悪いゆとり教育を弁護してみますね。


ゆとり教育」= ゆとりがあって、自分で自由に勉強出来る余裕のある教育体制、とすれば、これって実はやる気のある人ややりたい事がある人にとっては、自由に勉強できる時間が増えて、いいこともあるんですよね。

土曜日が休みだったら、自分で図書館に行って好きな本を読むのも良し。金曜夜から2泊3日で、遠くまで行って見学とかもできる。そりゃ可能性は、週休1日よりも広がりますよね。文部科学省の教育課程の拘束に縛られず、自由に自分のやりたいことをできる。その意味では、たしかに意義のあるコンセプト。1980年代に、“管理教育”が批判されていた頃はそういう意図で言われたんだとおもいます。

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だけど実際は、休暇を上手く使うアイデアが不足してたり、子供らにやる気が無かったり、親御さんたちが、子供らを塾へやっちゃったり…それで、やってみたはいいが、結局いままでと一緒やん!となってるのが、失敗したポイントなのでしょうかね。システムを急に変えても、親やまわりの人の意識が変わってないと、うまく廻らない、といういい反省材料となってしまったような感じですね(苦笑)だけど、もし本当に周りの環境が整っていたら、それなりの効果をあげたのかもしれません。

そうそう、家庭教師をやってる僕から言わせてもらえば、自由にやりたい事をやれ、なんてこと言うと、今時の子供はみ〜んな、Nintendo DSをやりますよ(笑) やるなと言ってもしますもん(苦笑)僕が小さい頃なんか、ファミコンは1日おきに1時間だったのになぁ。まったく、羨ましけしからん。ゆっくり読書、なんて、ごっつマイナーな一部の生徒しかしませんて。やっぱり自由選択って、それなりの自我が育ってからでないと、あかんのではないかなぁ。ある程度は管理してまんべんなくやらせてやるのが、後々の精神の健康にはいいのではないかなぁ。そんな気がしてきました。

  • というわけで僕なりの結論

究極的なゆとり教育←→スパルタ詰め込み教育

結局どっちも極端。コンセプトはわかるけど、それに合った人や社会環境があってはじめて有効なもの。
折衷的な落としどころを考えつつ、今の日本の子供たちにいちばん合うものを自由な発想で考えてやった方が、かえっていいシステムができるんじゃないかなぁ。