原爆忌に思う

 62回目の原爆忌被爆地はきっと鎮魂の祈りにつつまれていると思う。僕もそのせいかちょっと文体が硬い。けど今日くらいはこのままで。

 僕は小学校の頃からこの日が苦手だった。登校日に平和学習があって、心が重苦しくなるのをわかってて、怖い映画とかをみて、感想文をかかなきゃいけなかった。僕のいた小学校は、今で考えたら日○組なのかな?そういう先生がいて、冗談で「大日本帝国、バンザーイ!」と言ってプールに飛び込んだ奴が、職員室に連行されて一時間半説教されてたような学校。
 だから、感想文ではひたすら原爆の悲惨さを書きつらね、核兵器廃絶で結ばざるを得なかったのだけど、どこか心の底でむなしかった。(無理だろ、だってソ連アメリカが冷戦してるんだし…)と思いながら書いていた。

 そして今でも、報道でのこの日の取り上げ方を見てて、どこか空しい感じがぬぐい去れない。いや、鎮魂は大切だと思うのだ。静かに鎮魂の祈りをささげている人には、何の文句も出てこない。だけど、この日に毎年しゃしゃり出てくる「核廃絶を訴える人」の中に、お前はちゃんと犠牲者の気持ちを真剣に考えているのか、疑問に思える人がいる。それでいて、自分たちは正しいことを言っていると威丈高になって、他人を批判する。…それで、本当に犠牲者の心が晴れるのか?


 彼らはよく「日本は唯一の被爆国で、だからこの悲惨な体験を世界に訴えて、核廃絶につなげるべきだ!」という感じの言葉遣いをする。

 この唯一の被爆国、という言い回しが僕は嫌いだ。確かに事実はその通りなんだけど、これって日本が言い過ぎると、他の国の人からすれば、アメリカの核の抑止力に頼って、のうのうと平和に暮らしていながら、他の国に対しては核を廃絶せよ、という、実に自分勝手な意見に聞こえないだろうか。


 現実を見ると、中国が100発以上(だっけ?)の核ミサイルを持ってて、日本の主要都市に照準を合わせてる。北朝鮮も、数発分の核を持って、日本まで飛ばすミサイルを作ってる。中国は、日本との経済的結びつきが台無しになったら嫌だろうから、多少は核の使用を控えようともするだろうが、北朝鮮は一歩間違ったらやりかねない危うさが有る。戦後の日本は、どう見ても日米安保条約と、アメリカの核抑止力無しでは、安定が得られなかったし、これからも暫くはそうだろう。だけど、本当に危機が訪れたときに、利害関係が一致せず、アメリカが助けてくれなかったらどうか?何も日本を守るものが無い。
 こう考えると、核武装*1の検討をする、というのも、別に戦争を起こしたいわけでなく、ちゃんと真剣に日本の安定を考えて、言っているようにも思える。日本は、被爆国としての立場も有るし、非核三原則を国是として掲げているから、難しいけど。


 もう1つ気になるのは、彼らが核だけに反応すること。広島で14万、長崎で7万人が犠牲になったが、実は核でなくとも、あの焼夷弾での無差別爆撃でも多数の民間人が犠牲になっているのだ。東京大空襲で10万、全国各都市も合わせると、合計30万人が犠牲になってる。彼らは他の戦争被害者を差し置いて、原爆で亡くなった人だけを、神聖不可侵な被害者として扱っているように、僕には思えてならないのだ。


 結局、核かどうかは兵器の種類の違いに過ぎず、一番問題なのは、当時のアメリカが、民間人も無差別に殺す事を容認した、ということなのではないか。何年か前、NHKで、戦争当時のフィルムをあちこちから入手したものを、順番に放映するというのが以前やってて、たまたま見たんだけど、そこで米軍機が、畑を逃げ惑う日本の民間人を追いかけ、機関銃で撃ってるのを、米軍機の操縦席に固定したカメラから撮っていたフィルムがあった。もんぺをはいた民間人が逃げ惑うのを、何度も方向転換しながら追いかけ、機関銃を掃射しているのだ。あまりの非道さに怒りで我を忘れかけた。これだけを見るとまさに鬼畜米英だ。

 つまり、日本人は民間人でも殺してかまわない。そのように、当時の末端の兵士も、トルーマン大統領*2も考えていたから、あのような悲劇に繋がったのではないか。

 その辺りの背景を深く考えずに、核の名前を出すだけで騒いだり、核廃絶を訴えれば平和につながると考えるのは、ちょっと違う気がする。*3

*1:使用ではない。あくまで武装のみ

*2:人種差別思想を持っていたと言われる。当時のアメリカ政府には原爆投下を反対する人も大勢いて、大統領に原爆の使用をやめるよう進言していた

*3:べつに社○党を名指ししてません