言語化可能価値観

http://d.hatena.ne.jp/wakamura_you/20070612/1181621632

 ブログ界の片隅で、コミュニケーション論で盛り上がっているところがあって、たまたま僕の巡回先に言及があったので読んでみたら、面白く感じた文章がありました。

私の場合でしかないのですが、感じた事を言語化する事によって生じる隔離に違和感を持つと、それを埋めようとさらに言葉を重ねてもその隔たりの大きさを余計に実感する結果となってしまい、感じた事への誠実さを欠くような気分になってしまうのです。

男女論にするつもりはないのですが、女性がなんでも「かわい〜」とか「すご〜い」で済ませてしまうのは、言語化する事によってある断定した一事象に落とし込む事は感じた事を矮小化する行為のように感じてしまう、つまり感じた事そのものだけで十分で、なぜそう感じたかとか、どのような感じ方だったのかは必要無いだけでなく、不十分で不正確な情報の拡散への加担となり、できることなら避けたいと思う(無意識に)のではないかと思います。

確かに最近、他人のセリフを真に受けるのではなくて、その人の表現能力による誤差も考えつつ真意を類推する、という聞き方をするよう努めている私には、言語化の際の”ゆがみ”をとても気にします。そこを十分考えて、言葉にしにくい感覚を上手い例えで伝えられたりした時は、とっても気分が良いです。
(僕の場合、的を外しても、冗談で済ませられるよう、普段からちょっとアホな言動をしておくという環境整備策があった上での行動なんですけど)

感じた事を素直に話せる距離感というのは、その言語化による隔離を十分に理解してもらえるという安心感の度合いで、それは相手が理解ある人間であるというだけでは十分ではなく、理解を求める側の「この人なら大丈夫」という「相手の理解度に対する理解度」も必要だと思います。

確かに、言葉の意味を我流で受け止める人の前では、話しにくいですね…。僕の場合、話す相手が誰かによって、饒舌度が全然違うんですよ。無意識に調節してるのかもしれん。

表明できるような価値観というもの(仮に言語化可能価値観とします)と「感情的に嫌だ」というような、うまく言語化できない価値観(こちらは感情直結型価値観とします)を別の物と考えてみます。

あるものを評価するにあたって、それが自分の価値観にどうマッチするかを判断する時に、言語化可能価値観によって判断する場合もあれば、感情直結型価値観によって判断する場合もあります。

価値観を共有しようとする際に、判断したものが、ある人は言語化可能価値観によって、もう一人は感情直結型価値観によって判断した場合、共有のための議論のスタート地点が大きく懸け離れていると思うのです。

この辺、こんなにストレートに表現してあるのを見たことが無かったのでなんか新鮮でした。相手がどちらの型の価値観を表明したのか、また相手がこの「価値観の型の区別」をつけられるかによって、どうコミュニケーションを取るべきか変わってきますね!なんか、ガッテンボタンを押したくなります。役に立てられるかどうかは分からないけど、面白い分け方に感じました。

…え〜っと、そんだけ。特にオチは無いです。すみません。